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『活撃 刀剣乱舞』と巡る 京都の刀剣ヒストリー 〜第3回 「元の主」と京都の歴史 / 刀工の歴史〜
- 2017/9/11
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- 活撃 刀剣乱舞
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2017年7月よりテレビ放送が開始され、今年の京まふコラボビジュアルにも登場しているアニメ『活撃 刀剣乱舞』。立命館大学映像学部 企業連携プログラム学生チームでは、京都とゆかりのある刀剣スポットを訪ね「彼ら自身」である刀剣そのもの、また彼らを使用していた「元の主」である歴史上人物や、彼らを作り出した刀工について、スポット関係者のかたにインタビューを行うシリーズ企画を実施しました!
第3回となる今回は、刀剣スポットを二つご紹介いたします。一つ目のスポットは刀剣コレクターとしても有名だった織田信長とゆかりの深いお寺・本能寺です。作品内でも登場する薬研藤四郎の「元の主」である織田信長と本能寺のかかわりについて、僧侶・佐藤泰慎氏にお話を伺いました。
- まずは本能寺についてお話を伺いたいと思います。 本能寺とはどのようなお寺なのでしょうか。
本能寺は法華宗の寺院で、朝廷の命によって建てられた「官寺」ではなく、お信者さん・ お檀家さんというお寺を維持していただける方に建てていただいた「私寺」です。したがって、京都の街中を転々としており、官寺ではないために様々な紛争に巻き込まれ、焼失・ 再建・引っ越しを繰り返しています。
- ありがとうございます。それでは早速ですが、織田信長と本能寺のかかわりについてお話を伺いたいと思います。 信長と本能寺はどのような経緯でご縁が生まれたのでしょうか。
信長が活躍する天正時代、本能寺住職の任には朝廷出身の日承という方が就いておられました。また、当時の本能寺は現在の油小路のあたりに位置し、お寺の周りは城壁やお堀に囲まれていました。そこで天下統一を目指していた信長にとって、朝廷とのパイプがあることや外敵が侵入しにくいお寺の構造がちょうど良かったため、懇意にされていたのです。加えて信長が活躍していた当時、本能寺と関係のある寺院が、鉄砲の伝来で有名な種子島や貿易が盛んな大坂の堺などに存在しました。したがって、本能寺とのつながりがあれば様々な物資を入手しやすかったのです。信長が法華の信者だったかは定かでないのですが、以上のような理由から、ご縁が生まれたと考えられています。
- 信長は本能寺でどのように過ごしていたのでしょうか。
信長は、お寺に泊まっていくのではなく、お寺を全て明け渡してもらうという形で本能寺を利用していました。そのため僧侶は、身の周りのものをすべてまとめて近隣のお寺などに引っ越しをし、信長には空っぽの状態でお使いいただくという形で提供していたのです。また、信長が本能寺を利用することでお寺自体の領土安穏が保障されたため、本能寺を明け渡すことはお寺を守る手段の一つでもありました。
- 本能寺の境内には信長のお墓がありますが、どのような由縁があるのでしょうか。
本能寺の変で信長が自害したあと、信長の三男である信孝が「信長が亡くなったこの寺で菩提を弔ってほしい」という記書きを残しました。また本能寺の変では信長をはじめとして、家臣や明智方などにも亡くなられた方がたくさんおります。そのため、信孝の記書きに則ってというわけではないのですが、敵も味方も分け隔てなく供養するというお寺の存在意義のもと、お墓を置かせていただいております。残念ながら信長のご遺骨は残っていなかったようですが、お墓には信長が使っていた刀が納められているという言い伝えがあります。
- 大賓殿宝物館には信長の遺品などが所蔵されていますが、どのようなものがあるのでしょうか。
宝物館には信長が所有していたとされる太刀を展示しておりますが、日本がアメリカの占領下に置かれた時代に刀の多くが回収され、のちに本能寺には、現在展示している太刀が一振り戻ってきただけでした。太刀の銘は三条宗近とされておりますが、研ぎすぎたために細くなってしまったようです。また、信長が所有していた刀だけではなく、森蘭丸が守り刀として扱っていた背負い刀もございます。その他にも、宗教的遺宝や各時代の古文書なども展示しており、中でも唐銅香炉「三足の蛙」は、本能寺の変が起こる前夜に、信長公に危険を知らせるがごとく突然鳴き始めたと伝えられています。
- 詳しいお話、ありがとうございました!
本能寺へは、京都市営地下鉄東西線「市役所前駅」、市バス・京都バス「河原町三条」バス停のご利用をおすすめします。信長のお墓である信長公廟や大賓殿宝物館だけではなく、 総けやき造りの本堂も見学可能です。また、宝物館の展示品は年に3回入れ替えがあり、様々な名品を楽しむことができます。一度足を運んでみてはいかがでしょうか?
続いて二つ目のスポットは、東山区にある粟田神社です。粟田神社の末社である「鍛冶神社」には、作品内でも登場する三日月宗近を生み出した刀工・三条小鍛冶宗近と、薬研藤四郎・骨喰藤四郎を生み出した刀工・粟田口藤四郎吉光が祀られています。そこで、この京都の地で活躍した刀工について、宮司・佐々貴敏道氏にお話を伺いました。
- まずは鍛冶神社についてお話を伺いたいと思います。刀工である三条小鍛冶宗近と粟田口藤四郎吉光を、どのような由縁で祀られることになったのでしょうか。
もともとこの地は山城の刀鍛冶発祥の地で、三条と粟田口の刀鍛冶が活動していました。神社が祀る神様は、自然神や神話の神様など様々ですが、鍛冶神社では三条・粟田口の中でもとりわけ有名であり、大変な功績を残された宗近と吉光を御祭神という形でお祀りしています。ですが、その二人だけではなく、二人を代表とする三条・粟田口の刀鍛冶たちをお祀りしている神社になります。
- 鍛冶神社では毎年「鍛冶神社祭」というものを行っていると伺ったのですが、この鍛冶神社祭とはどのようなお祭りなのでしょうか。
御祭神をほめたたえ、祝詞をあげて祭事をするという形でおこなっております。年に一度、8月の第一日曜日に執り行っており、関係者に限らずどなたでも参列可能です。
- ありがとうございます。この地が山城の刀鍛冶の発祥の地ということでしたが、現在も 刀鍛冶をしている方はいらっしゃるのでしょうか。
実は、もうこの地で刀鍛冶として活動している方はいらっしゃいません。刀が盛んに作られていたのは、平安時代後期〜鎌倉時代中期頃までだと考えられています。京都の刀鍛冶の歴史は、三条・粟田口にはじまり、のちに来・堀川へと移っていきます。 江戸時代になると、このあたりは陶器の産地として発展し、一時期は清水をしのぐほどの勢いだったといわれています。その後、昭和のころに一度途切れたのですが、近年になってもともとの窯元の方が粟田焼を復興され、陶器作家として活動していらっしゃいます。
- ありがとうございます。それでは最後に一つお伺いしたいのですが、刀剣ブームを受けて神社にはどのような影響がありましたか。
今まで神社に来られなかった世代の方が来られますので、神社自体が活気づいてきました。中には神社の雰囲気などを気に入っていただいて、何度も足を運んでくださる方もいらっしゃり、大変ありがたく感じています。また、鍛冶神社自体は末社のため今まではお参りする方が少なかったのですが、たくさんの方がお参りに来られるようになり、 地域の方にもこの地が刀鍛冶で有名だったということを知っていただけるきっかけになりました。京都では以前から知られていたかもしれませんが、全国的に知られるようになったということもうれしく思います。
- 詳しいお話、ありがとうございました!
粟田神社へは、京都市営地下鉄東西線「東山駅」・市バス「神宮道」バス停のご利用をおすすめします。駅・バス停からは少し距離がありますが、街中には案内看板もありますので、ぜひ足を運んでみてください。
今年の「京都国際マンガ・アニメフェア(京まふ)」は9月16・17日開催。こちらもぜひチェックしてくださいね!
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