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『活撃 刀剣乱舞』と巡る 京都の刀剣ヒストリー 〜第1回 刀剣の歴史〜
- 2017/8/30
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- 活撃 刀剣乱舞
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京都国立博物館 平成知新館
2017年7月よりテレビ放送が開始され、今年の京まふコラボビジュアルにも登場しているアニメ『活撃 刀剣乱舞』。この作品では幕末を舞台に、京都ともゆかりの深い刀剣が数多く活躍します。「京都とゆかりのある刀剣の歴史を知ることで、この作品をもっと楽しめるのではないだろうか?」というわけで、立命館大学映像学部 企業連携プログラム学生チームの審神者2名で、京都にまつわる刀剣やそれを使用していた歴史上人物、また刀剣を生み出す刀工について探る、インタビュー企画を実施しました!
第1回となる今回の刀剣スポットは、作品内でも活躍する「陸奥守吉行(銘 吉行)」が所蔵されていることでも有名な京都国立博物館です。陸奥守吉行とはどのような刀なのか、またこの刀を龍馬はどのように扱っていたのかについて、京都国立博物館 学芸部上席研究員・宮川禎一氏、企画室長・伊藤信二氏にお話を伺いました。
※この記事では、特段表記のない限り「陸奥守吉行」は「刀 銘吉行」のことを指しています。
- まずは、陸奥守吉行の刀としての特徴についてお伺いしたいと思います。陸奥守吉行の特徴のひとつに、「刃に反りがなく、まっすぐである」ということがよく話題にのぼりますが、この「反りがない」のはなぜなのでしょうか。
陸奥守吉行は、元から反りがなく作られたのではなく、実は現在の陸奥守吉行は、坂本龍馬が所持していた頃とは形状が変わっていると考えられています。大正2年(1913年)12月に北海道・釧路にあった龍馬の子孫の家が火事に遭ってしまい、その時にこの陸奥守吉行も火を受けてしまいました。刀は無事発見されたのですが、火事の熱で刃の反り返りが戻ってしまったことで、偶然、現在の反りのないまっすぐに近い形状になってしまいました。龍馬が陸奥守吉行を所持していたときには、現在よりももっと反りがあったとされています。
- この「反りが戻ってしまう」というのは、一般的によくある現象なのですか。
刃をつくるときには「焼き入れ」という、熱した刀身を適度な温度の水につけて冷やす工程があります。そのときに、反りがかなり付きます。刀工のかたの話によると、この戻ってしまった刀を再度熱すると今度はまた反りが出てくることがあるそうです。この他にも錆びなどの経年劣化によって刀が曲がってしまうということはよくあることで、この「火事によって刀が変形してしまった」陸奥守吉行の例は、考古学的にも重要な事例であるといえます。
- 反りが戻ってしまったほかに、火事による陸奥守吉行の形状への変化はありましたか。
陸奥守吉行は火事で燃えてしまったあと、札幌で一度研ぎ直されています。その際に、最初は「拳丁子(拳形丁子)」と呼ばれる不規則にギザギザとうねったような刃文であったのが目立たなくなってしまい、刃文がまっすぐの「直刃」に見えるような加工がなされたようです。
実は、この拳丁子の刃文が発見されたのはごく最近のことです。実物をよく観察してみるとこの刃文をうっすら見ることができます。展覧会(巡回展「没後150年 坂本龍馬」)では特殊なスキャナーと画像処理で、この刃文も合わせて画像で提示しました。
(全国4つの博物館・美術館をまわった巡回展「没後150年 坂本龍馬」の図録には、拳丁子の刃文がよくわかる写真が掲載されています!)
- ありがとうございます。それでは次に、陸奥守吉行と龍馬にまつわる歴史についてお伺いしたいと思います。まずは陸奥守吉行を作った、「刀工・陸奥守吉行」について教えてください。
刀の「陸奥守吉行」を生み出した刀工・陸奥守吉行は、山城の刀鍛冶の流れをくむ三品派の刀工で土佐の名工として名を知られる存在でした。その作品の一本が、土佐の郷士・坂本家に家宝として珍重されていた「刀 銘吉行」であり、坂本龍馬の佩刀であった陸奥守吉行です。
- 龍馬は坂本家の長男ではないのにも関わらず、なぜ家宝の刀を佩刀していたのでしょうか。
龍馬は剣客として江戸にのぼると、剣術を磨き、大道場・北辰一刀流の免状をもらうまでになります。江戸の道場は、流派の威厳を守るためにも本当に強い剣士にしか免状を出さないため、この免状が龍馬のステータスであり、自信となっていました。
この江戸での修行で政治の大切さに気づいた龍馬は、剣術の師範としてではなく攘夷志士として活動していくようになりますが、志士の活動のなかで旗本・大名のところへ話をしに行くことができたのも、この通り龍馬の剣の腕に自信があり、それが免状によって証明されているからです。
この通り自分の剣に自信のあった龍馬は、持つ刀にも強いこだわりを持っていました。そこで兄・坂本権平に頼みこみ、権平から西郷隆盛に預けられ、龍馬へ届けられたとされています。
20歳年上の兄・権平は龍馬をとても可愛がっており、ふたりは親子のように仲が良かったようです。権平は、龍馬に家督を継がせたいと手紙に記すほど龍馬の腕を評価していて、龍馬の頼みはよく聞いてくれる優しい兄でした。そのため、家宝の陸奥守吉行も龍馬の頼みとあれば譲ったのでしょう。
龍馬は手紙をよく書く人であり、権平に宛てて書いた陸奥守吉行へのお礼の手紙も残っています。意訳すると「吉行の刀(陸奥守吉行)を京の目利きに見せると、皆粟田口忠綱(江戸時代の名工)作ほどの名刀だと言う。土佐から出てきた後輩もこの刀をしきりに欲しがり、兄から頂いたものだと誇りに思っている」と記しており、名刀を譲ってくれたことへの感謝を述べています。
- 坂本龍馬の身長については諸説ありますが、いずれも当時としてはかなりの大男であったと言われています。陸奥守吉行は特別長い刀ではないように見えますが、龍馬にとってこの刀は短くはなかったのでしょうか。
陸奥守吉行は刃長が約71cmと、侍が差す大刀としては一般的な長さです。確かに龍馬が持つと相対的に短く見えたかもしれませんが、野球のバットが選手の体格に影響されずほとんど同じ形・長さに見えるように、刀にも長年の歴史の間に決まってきた「使いやすい形」があります。そのため、体の大きさと刀の大きさは特に比例するものではないと思います。
- 陸奥守吉行は、龍馬が近江屋事件で暗殺されたときにも所持していたことで知られています。動乱の時代に龍馬が所持していた刀にしては綺麗すぎると思うのですが、なぜなのでしょうか。
龍馬が権平から陸奥守吉行を譲ってもらったのが、慶應3年(1867年)6月のことです。そして近江屋事件が起こり、龍馬が暗殺されたのが同年の11月15日ですので、実質龍馬は陸奥守吉行を約5ヶ月間しか所有していないことになります。
また近江屋事件のとき、龍馬は相手の刃を陸奥守吉行の穂の部分で受けたので、斜めに削がれたような跡ができたとされています。しかし先述の通り、この刀は大正時代に一度焼けて研ぎ直されているため、そのときにかなり表面が削がれており、したがって大きな傷がほとんど目立たなくなったと考えられます。
- 詳しいお話、ありがとうございました!
京都国立博物館では今回お話を伺った陸奥守吉行の他にも、これまでに秋田藤四郎(短刀 銘吉光【名物 秋田藤四郎】)など、『刀剣乱舞』にも登場する刀剣を多く収蔵・展示されています。展示は数ヶ月おきに入れ替えられておりいつでも見られるわけではありませんが、国宝・重要文化財といった貴重な展示物も多く、どれも素晴らしいものばかりです。皆さんもぜひ足をお運びください! 周辺には脇差・骨喰藤四郎ゆかりの豊国神社や三十三間堂など寺社仏閣が多くあるので、博物館見学のあとの観光もおすすめです!
今年の「京都国際マンガ・アニメフェア(京まふ)」は9月16日・17日開催。こちらもぜひチェックしてくださいね!
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